前回に続き、親鸞会で聞いた話を書きたいと思います。

地獄と切っても切り離せない問題が、煩悩。
その代表が、欲です。
欲といっても色々で代表的な欲五つを五欲といいます。
その1つ、名誉欲について話をしていました。

名利の大山に押しつぶされて、無残に果てる人がいかに多いことでしょう。
二十世紀最後の十一月、別の遺跡から出た石器を自分で埋めて、「六十万年前の石器発見」と事実を捏造していた遺跡調査団長が発覚しました。このため十年来の考古学研究がゆらいでいるといいます。
次々と「日本最古」をぬりかえる成果を発表、「神の手」などと呼ばれて脚光を浴びていた人物が犯人。
 かっこよく最期を飾ろうとする死の美学といわれるものも、名誉欲の演出にほかならなりません。
 かりそめのやすらぎを守るために、どれだけ自分をあざむき、他人をだまし通していることでしょう。他人のことは、ほめているようでバカにし、自分のことは、卑下しているようで上げているものです。

前回に続き、親鸞会で聞いた話を書きたいと思います。

地獄と切っても切り離せない問題が、煩悩。
その代表が、欲です。
欲といっても色々で代表的な欲五つを五欲といいます。
その1つ、名誉欲について話をしていました。

遺伝子の構造を解明して、ノーベル賞を受けたワトソンは、
『二重らせん』という著書で、周囲をあざむき情報を盗み見たり、
ライバルには成果を隠したりした狡猾な手段を、生々しく自白
しました。

「鳴かず飛ばずの大学教授で終わるより、有名になった自分を想像したほうが、楽しいに決まっている」

と語るワトソンは、決して自分の言動は風変わりなものではないだろう、
と書いています。

近代科学の創始者ニュートンは「微分積分学」発見の功名争いで、
ライプニッツと長期間、醜い暗闘にしのぎを削りました。

清潔なイメージの科学の世界でも、名誉欲が渦巻いているのですね。

前回に続き、親鸞会で聞いた話を書きたいと思います。

地獄と切っても切り離せない問題が、煩悩。

その代表が、欲です。

欲といっても色々で代表的な欲五つを五欲といいます。

その1つ、名誉欲について話をしていました。

学校でのいじめは、優るをねたむ心からおこっているケースも多いようです。
成績のよい子、かわいい子が、「ムカツク」ターゲットにされてしまうケースもあります。

勉強のライバルが病気でテストを受けられなかったときで、普段は笑いながらワイワイやっていた仲なのに、一つ成績があがったと、彼の病気をよろこんでしまう。友人の名声をねたむ心がないでしょうか。

 ノーベル文学賞に輝いたB・ラッセルが数学を教えていたとき、後にハイデガーと並んで二十世紀最大の哲学者とよばれる、ウィトゲンシュタインが受講をはじめました。それからわずか一、二年のうちにラッセルは、彼から鋭い批判を浴びせられるようになったのです。
教え子からの屈辱は、よほど耐えがたかったのでしょう。
ラッセルはそれから、ウィトゲンシュタインを口汚くののしり、著作の一部から彼の名前を削除したと言われます。
 ライバルは、自己をみがいてくれる恩人なのに、憎んで傷つけ、引きずりおろそうとするのも、名誉欲の仕業でしょう。

前回に続き、親鸞会で聞いた話を書きたいと思います。

親鸞聖人は、すべての人は「名利の大山」に迷っていると教えられて
います。
「名」とは名誉欲のこと。
心理学者、アドラーによると、
人間を根本的に動かしているのは、「優越を求める心」だそうです。

「人は、生まれつき、優った人間になりたいと思っている」
ということです。

周りの人も、他人に勝つとほめますが、負けると見くだします。
生存競争の激しい今日は、学歴競争、出世競争はエスカレートする
ばかりです。
「お受験」ブームで、勝ち負けの世界は幼稚園にまで入り込むように
なっています。
 なんとか上に立って威張りたい、見おろされたくないと汲々し、
財力を誇り、知力、腕力を見せつけようとはしていないでしょうか。

自分に優れたものがなければ、お国自慢や子供自慢まで始めます。
前科の回数ですら刑務所内では優越意識の材料になるといわれます。
このような心で、地獄行きの種をつくっているのかも知れません。

今日も親鸞会で聞いた話をお伝えしたいと思います。

親鸞聖人は、私たちは「名利の大山」に迷っていると教えられて
います。
「名」とは名誉欲のことです。

よく思われたい、
有能だ、
カッコいい、
かわいい、
綺麗な人だ
素敵な人だとほめられたい。

逆に
無能だ、
カッコわるい
ぶさいく
汚い、
あっちいけ、と嫌われたくない、
悪口言われるとおもしろくない心です。

「利」は利益欲で、
一円でもたくさんお金や物が欲しい心。

親鸞聖人は、そんな名誉欲、利益欲が大きな山ほどあって
朝から晩までふりまわされている。
感謝もなければ懺悔もない。
なんと情けない親鸞だなぁと痛烈な懺悔をされているのです。

底の知れぬ欲が、底の知れぬ地獄を生み出すのでしょうか。。。

今日も親鸞会で聞いた話をお伝えしたいと思います。
本居宣長(もとおりのりなが)という歴史上の人物は晩年、
生き神サマと尊敬されていたそうです。

その宣長に使われていた女性が書生に、
「家の先生は、本当に神サマですか」
と真剣な面持ちでたずねました。

書生は「みんなが言っているのだから、間違いないよ」と答えると、
女性は急に泣きだしました。
びっくりして理由をたずねると、
「昨晩、神サマが私の床に入ってこられたので、
 思わず頭をなぐってしまいました。
 その罰が当たったらどうしよう」
ルネ・デカルトは「近代哲学の父」といわれ「理性」について語っています。
ところがデカルトもお手伝いの女性に子供を産ませ、未婚の母にしています。
 
泳ぎ切れない愛欲の広海に溺れているのは、私たちの実相ではないでしょうか?

  無明煩悩しげくして
  塵数のごとく遍満す
  愛憎違順することは
  高峯岳山にことならず   (『正像末和讃』)

(ここで「無明」といわれているのは、欲や怒りの煩悩のこと)

「体一杯、欲や怒りの毒炎を吹いている親鸞。
 自分にしたがう者は愛して近づけるが、反する者は憎んで遠ざける。
 そんな心は高く大きく、高峯岳山と変わらない」
 
煩悩の強さ、罪障の重さを見きわめた深刻な自覚であり、懺悔です。
愛欲の広海に沈没しているのは、いったい誰でしょう?
そんな私は死んだらどうなるのでしょうか。。。

 前回の続きです☆

「あらゆる人は、つねに淫猥なことばかり考え、
 婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、
 卑猥な行為を思いのままにしている。
 
 我が妻を厭い憎んで、他の女をひそかにうかがって
 煩悶の絶えたことなく、愛欲の波は高く寄せかけ、寄せかけ、
 起つも坐るも、安らかでない」

 仏典に説かれている刀葉林地獄(とうようりんじごく)といわれるものは、
 人間のこの愛欲の広海を描かれたものであろう。
 
この地獄へ堕ちた男がふと見ると、天を摩すような大樹がある。
葉は刃のごとく鋭く、焔を吹いている。樹上には好みの女が、満面媚を浮かべて、自分を招いているではないか。罪人のかつての恋人である。

男は恋しさのあまり、居ても立ってもおれず、前後を忘れて木に登ってゆく。すると刀葉が降ってきて、男の肉を割き、骨を刺し、全身血だるまになるが、愛欲はいっそう激しさを増す。
 ヤットの思いで近づいて、満身の力で抱こうとすると、女は忽然と消えうせて、今度は樹の下から声がする。

「あなたを慕うてここまできたわ。なぜ早く来て抱いてくださらないの」

とやさしく誘う。たかが一人の女のために、火を吐く思いで登ってきた純情さが、いじらしく泣けてくるが、愛恋の情はますます燃えさかり、樹を下りようとすると、地上に落下した刀葉が、今度は逆に、上に向かって焔を吐き、寸々分々に肉を徹し、骨を削る。言語に絶する苦痛である。
 ようやく地上に下りると、恋人の姿はそこにはなく、樹上からまた身悶えしながら彼をよぶ。愛欲の広海は果てしなく、限りなく登り下りをくり返し、苦しみつづける地獄であると説かれている。

 別れては恋しく、会えば敵同士となって傷つけあう。満たされなければ渇き、満たせば二倍の度を増して渇く。愛欲の実態をあらわして余すところがない。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

いやあ、恐ろしいですね。

この欲に振り回され、恐ろしいこともやってしまうのですね。

まだまだ続きます。

浄土真宗親鸞会で仏教を聞いている友人から貸してもらった本に
次のようなことが書かれてありました。

「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることをよろこばず、真証の証に近くことをたのしまず。恥ずべし、傷むべし(『教行信証』)」
「ああ、情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、名誉欲と利益欲にふりまわされて、〝浄土へ往ける身になった(定聚の数に入る)こと〟をよろこばず、〝仏のさとり(真証の証)に近づいていること〟も、たのしまないとは。どこどこまでも痺れ切った奴だなぁ! 恥ずかしきことよ、悲しきことか」
 二十章から詳しく説明するが、〝浄土へ往ける身になった人〟〝仏のさとりに近づいている人〟とは、後生暗い心(無明の闇)が破れ、人生の目的達成した人のことである。ここで聖人は、「私は浄土へ往ける身になった」「仏のさとりに近づいている」と明言されているから、そんな自覚と確信のある人だけが知らされる、自己であり懺悔であることを、確認しておかなければならないであろう。
 では、「愛欲の広海」とは何を言われたのだろうか。
 一皮むけばウミ血が流れるとわかっていても、美しい女を見たときは、邪淫の心が燃え上がっている、と釈尊は説かれている。

   あらゆる人は、つねに淫猥なことばかり考え、婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、卑猥な行為を思いのままにしている。
   我が妻を厭い憎んで、他の女をひそかにうかがって煩悶の絶えたことなく、愛欲の波は高く寄せかけ、寄せかけ、起つも坐るも、安らかでない

 仏典に説かれている刀葉林地獄といわれるものは、人間のこの愛欲の広海を描かれたものであろう。
つづく

地獄と悪の問題は切っても切り離せないでしょう。

仏教では、私たち人間を「煩悩具足の凡夫」(煩悩の塊)と教えます。
百八ある「煩悩」は私たちを「煩わせ悩ませるもの」。
中でも恐ろしいのが貪欲(欲の心)、瞋恚(怒りの心)、愚痴(ねたみそねみの心)の
三毒の煩悩です。

今日はその最初の貪欲(とんよく)についてです。

おいしいものが食べたい、

お金が欲しい、

財産を得たい、

愛されたい、

褒められたい

楽したい。

欲望は際限なく広がります。

水がものを潤し、深さも知れないようなものですから、

欲は青色で表されます。朝から晩まで私たちは、この心に動かされてはいないでしょうか?

芥川龍之介の有名な小説『蜘蛛の糸』には、欲の本性が描かれています。

血の池地獄で苦しむ大泥棒・カンダタを救おうと、
極楽の蜘蛛の糸を、お釈迦さまは地獄に垂らされました。
カンダタはその糸を上って地獄から逃れようとします。

途中でふと足下を見ると、何とたくさんの罪人たちが、
後から上がってくるではありませんか。

カンダタは驚いて叫ぶ。

「おまえたち、だれの許しを受けて上ってきた。この蜘蛛の糸はオレのものだ。下りろ」

こう喚いた、その時、今まで何ともなかった糸が手元でプツンと切れた。

あわれカンダタは、多くの罪人もろとも、血の池地獄へ再び堕ちていったのです。

自分ばかり地獄からぬけ出そうとする彼の無慈悲な心を、
お釈迦さまは浅ましく思召されたのでしょう、と物語は結ばれています。

このカンダタのような心を、「我利我利(がりがり)」と仏教では教えられます。

「我が利益」ばかり追い求め、自分さえよければ他人はどうなろうと構わない心です。
 余裕のある時は人に譲る気持ちも起きますが、保身や利害にかかわるギリギリの局面ではどんな心が起きるか。よくよく自己を見つめてみましょう。

この前、参加した親鸞会のお話では、この自分の心について詳しく教えられていました。

五逆罪は地獄行きのタネだと仏教で教えられています。

五逆罪とは、五つの恐ろしい罪ということで、
次の五つをいいます。

殺父 – 父殺し。
殺母 – 母殺し。
殺羅漢 – 羅漢殺し。
和合僧を破る
佛身より血を出だす

この中の一つでも犯せば、五逆の罪を犯したことになります。
大恩ある親を殺せば、恐ろしい五逆罪です。

親の恩は、山よりも高く、海よりも深いといわれます。

その大恩ある両親を殺すことは大変恐ろしい罪なのです。