Archive for 6月, 2009

地獄における四苦八苦の4番目「死苦」は説明の都合上最後にさせていただきますね。

今日は愛別離苦。
愛別離苦とは、愛が別離することの苦しみで、愛情破綻の地獄の苦をいいます。失恋の痛手を地獄として、自殺する者すらあるくらいです。
二十年もの間、釈尊に師事し、すでに凡情を超越していた阿難尊者でさえ、釈尊がお亡くなりになった時、悲嘆やる方なく、人事不省(意識不明)になられたといいますから、この苦痛もやはり地獄。決して生易しいものではありません。
親が子を失うとか子が親に離れるとか、夫婦、兄弟、朋友知己、その他、死に別れ生き別れ等々、考えるだけでもそら恐ろしく、いずれも耐え難き地獄の苦痛です。

ところが、愛し合いむつみ合っていてそれを極楽と思っていても、いずれは別れねばならぬかと思えば、一方で、好ましからぬ人と一緒に暮らさねばならぬ、という地獄の苦しみもあります。つまりこれは本当の極楽ではなかったということですね。

嫌な人と会わねばならない苦しみは八苦の怨憎会苦に含まれることですが、愛と憎という感情は常に紙一重であり、ときには同じことを指していることも珍しくはありません。夫を愛するがゆえに浮気という行いを憎むことがあれば、あまりに強く愛するがゆえにストーカー行為にまで及んでしまうケースもあり、これもまた地獄といえます。
これも、幸福と不幸の隣り合わせであり、生きるとは何かを考えさせられる。これもやはり地獄でしょう。

人を愛することの陰には必ず苦しみがつきまとい、それが地獄と思われます。
恋をしても告白できずに悩むことも、その苦しみのひとつです。
こういったこの世ならではの地獄の苦しみのひとつひとつを取り除くべく、親鸞会は仏教を正しく推進しているのですね。

Q 極楽はおとぎ話ではないのですか。

A 極楽浄土には、金色さん然と輝く宮殿楼閣や、金銀の大地に八功徳水の蓮池があると、『阿弥陀経』に説かれています。
現代人には、そんな極楽という世界は信じられないと、思う人もあるでしょう。仏の境界である極楽は、人間界と大変異なるので、お釈迦さまは、時には、極楽を「説くべからず」とおっしゃり、随分極楽の表現に悩まれたようです。犬や猫にパソコンの技術を説明するより、極楽の説明は困難だったことでしょう。しかし、説いても分からぬからと説かずにいては、衆生に極楽を知らせることはできません。
そこで、釈尊は人間界で見聞しているもので、極楽浄土を例えられたのです。これを、「余方因順」といいます。
「余方」とは、仏が説かれる相手の世界、「因順」とは、それに順って、との意です。人間には、金銀財宝で極楽を例えられましたが、猫を相手に極楽を説明するならば、「猫の参るお浄土は、宮殿楼閣みなカツオ、猫もあきれてニャムアミダ」となるでしょう。

死んだらどうなるのだろう?という疑問について、死ねば往生して誰でも極楽に往って仏になれる、という迷信が広まってしまっています。
この世が地獄だからといって自ら死を選んで往生を目指すことはお釈迦さまも望んではいません。世に蔓延っている自殺サイトも、往生する方法を探すためではなく、生死について深く考えるためにこそあるのだと私は思います。
お釈迦さまが『大無量寿経』に、「易往而無人(いおうにむにん)」とおっしゃっているのを、親鸞会でなら詳しく教えられていますが、そうでない人たちは知らないのでしょう。
弥陀の極楽浄土へは「往き易いけれども、往っている人が少ない」という意味ですが、これはスッとはよめないですね。
「往き易い」のならば、極楽には「人が多い」はずだし、「少ない」とすれば、極楽へ「往き易い」とはいえないからです。
では、釈尊の金言は何を意味するのでしょう。
浄土へ「往き易い」と言われるのは、この世で阿弥陀仏に救われた人(信心決定した人)のことです。他力の信心一つで必ず極楽浄土へ往けるから「往き易い」のですが、この世という地獄の世界において阿弥陀仏に救われた人がめったにいないので、極楽は「人なし」と言われているのです。
肝心の信心決定を説き勧める人は雨夜の星です。
幸いに、「信心をとれ」と命懸けで教えられる方にお会いできても、よく聞く人がまたいない。皆「易往」だけを読んで、「而無人」の三文字を誰も読めないのでしょう。

厚生労働省による調査で、家庭内での高齢者虐待の実態が明らかになりました。
被害は1年で1万2000件に上り、被害者の8割が女性だったといいます。
息子による虐待が37%と最も多く、娘の14%と合わせて、実子からの被害が全体の半数を占めています。
この数はまだ”氷山の一角”との指摘もあり、さらに増えていく可能性が高いと見られています。

“まだ若いから、老後なんて先のこと”と言っている人も、年齢に関係ないのが地獄の病苦。病はスキあらば私たちの体をむしばむからです。
世を挙げての健康ブームも、裏を返せば、病が不安だからでしょう。有機栽培の野菜が飛ぶように売れ、体に悪い添加物など取らないように、と食品の表示を確認する目も真剣そのものです。ある食品がテレビ番組で体にいいと紹介されると、たちまち人々がスーパーに殺到し、売り切れ続出ということもしばしば。今年初めの人気番組の捏造も、地獄から逃れようという健康への関心が、高い視聴率となるからでしょう。
しかし、どんなに気をつけても、「人間は病の器」。医学が長足の進歩を遂げている今日も病はなくなりません。忙しい時は、”病気にでもなってしばらく入院したい”と思う人もあるでしょうが、いざ病気にかかると、地獄といえるほどつらいことはないものです。どんな病気でも本人の苦痛は”甲乙つけ難い”という意味で、「病」の字は「(やまいだれ)」の中に「丙」と書くともいわれます。
病気になったら、昨日までの健康は極楽だったなどと喜べません。肉体はやせ衰え、立ち居ふるまいもままならず、痛苦にさいなまれて地獄と思うことに。飲食や便通も人の助けが必要になることもあります。またこの世の地獄にありがちなストレスによって心の病を抱えることにもなり生きがいを失うことにもかねません。
そうならないように、病気が発症しないうちから注意を促す予防医学も今日注目され、地獄を極楽として生きようという提案がなされています。