Archive for 5月, 2009

日々、確実に老いてゆく老苦は、この地獄における老いの苦しみです。歳をとれば目は薄く、耳は遠くなり、身体は思うように動かなくなります。「年寄り笑うな行く道じゃ」と言われるように、老いは自分の行く末。往生までに誰にも待ち受ける運命なのです。

「面影の 変わらで年の つもれかし たとえ命に 限りあるとも」
と詠んだのは、平安の美女・小野小町ですが、切々たる老苦の訴えが聞こえてくるようですね。絶世の美女でも老いには勝てず、少しでもシワができようものなら、命の縮まるような、それこそ地獄の思いがしたのではないでしょうか。
世界三大美女に数えられる、残りの二人の楊貴妃やクレオパトラも、美しくあろうと努力を重ねる傍ら、常にやがて来る老いに地獄のごとく恐れていました。
美しくありたいのは女性の本願。整形手術や毎日の化粧で、極楽のような生にしようと大変なことです。ところが、一生で本当に綺麗と言えるのは、数年で、まさに花の命であり、刻々と老い、極楽とは程遠い地獄とも思える苦しみが一日一日多くなっているのです。

今現在がどんなに極楽だと楽しく思おうとも、楽しいがゆえに隣り合わせの地獄に怯える。これは、先日お話した裕福ゆえの地獄の苦しみについてもいえることです。
この世すら地獄の人は阿弥陀仏に救われない限り、極楽にいくことは出来ないのです。
こんな人生、なぜ生きる必要があるのか・・・ここにこの世の地獄があるのです。
不幸から逃れ得ることのないこの世という名の地獄。ここから極楽へ往生させてくださるのが阿弥陀仏であり、その教えを伝えているのが仏教です。
仏教の法話を聞くことが、この地獄から逃れて極楽へと往く唯一の道なのです。

Q 極楽には、なぜ蓮の華が咲いていると説かれているのでしょうか。

A 「池の中に蓮華あり、大さ車輪の如し」(阿弥陀経)
とあるように、極楽には、蓮の華が咲いていると説かれています。また、極楽に生まれる人は、蓮の台に忽然と生まれるので「蓮華化生」といいます。それは、蓮の華が、往生した後に極楽へ生まれる人の、正しい信心の特徴を表しているからです。正しい信心とは、阿弥陀如来から賜る他力の信心です。生きている今、蓮のような正しい信心を獲得している人だけが、一息切れて往生すると同時に、極楽浄土の蓮台に仏として生まれさせていただけること、それが極楽への往生だとよく知ってください。

Q 極楽には、なぜたくさんの鳥がいるのでしょうか。

A 確かに阿弥陀仏のお浄土である極楽には、カリョウビンガの鳥や、共命の鳥など、たくさんの鳥がいると、『阿弥陀経』に説かれていますが、牛や豚や犬が極楽にいるとは説かれていません。どうしてでしょう。次のような蓮如上人のお言葉があります。
「物を言え物を言え。物をいわぬ者は恐ろしき。信・不信ともにただ物を言え。物を申せば心底も聞え、また人にも直さるるなり。ただ物を申せ」
物を言わぬ人は恐ろしい人だとまで蓮如上人はおっしゃっていますから、仏法者は、いつでもハッキリと物を言うことが大切です。ありのままの心中をさらけ出し、分からぬことは納得するまで聞くことが肝心でしょう。
その点、鳥は、そのつど、飛びながらでも脱糞する気の軽い動物ですが、牛や豚や犬は、タメ糞して一度に放出します。
言いたいことを言わずに、心の奥深くためている人は救われざる人か。その時その時の心中を、洗いざらい言える気の軽い人が、弥陀の本願に相応し、それが極楽に表現されたのでしょう。

無ければないことを苦しみ、有ればあることで苦しむ。

大方がそう思うように、金や物、名誉や地位のないのが地獄の苦しみの根元ならば、それらに恵まれた人生は、極楽のごとくよろこびに輝いていたに違いありません。実際はどうでしょう。歴史の証言も豊富ですが、現実も目に余るものがあります。

イギリス王室の華・ダイアナ妃の、自殺未遂は五回にも及んだといいます。美貌といい、シンデレラストーリーといい、”世紀の結婚”とまでうらやまれてさぞ極楽であろうと思われた彼女も、人知れずこの世という地獄に苦しむ、一個の人間でしかありませんでした。ノーベル文学賞に輝いたヘミングウェイ(アメリカ)の自殺は世人を驚かせました。氏もまたこの世という地獄で苦悩していたのでしょう。

田なければ、また憂いて、田あらんことを欲し、宅なければ、また憂いて、宅あらんことを欲す。田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共にこれを憂う。有無同じく然り
(大無量寿経)

「田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。その他のものにしても、皆同じである」
金、財産、名誉、地位、家族、これらが無ければないことを地獄だと苦しみ、有ればあることでそれも地獄だと苦しむ。有る者は”金の鎖”、無い者は”鉄の鎖”で地獄につながれているといってもよいでしょう。材質が金であろうと鉄であろうと、極楽に憧れて地獄に苦しんでいることに変わりはありません。
これを釈尊は「有無同然」と説かれています。
どれほどの財宝や権力を手にして極楽と思えても、本当の地獄の苦悩の根元を知り、取り除かない限り(往生しない限り)人生の重荷は下ろせない・・・地獄から極楽へと逃れることはできないでしょう。

「こんな苦しい人生なぜ生きる」のこの世の地獄を知ることが、本当の極楽を知ろう、の心につながるのです。

地獄には、この世の自業苦と死んでからの地獄があるといわれます。
お釈迦さまはこの世(地獄)の苦しみを四苦八苦で教えておられますが、
「四苦八苦の人生、何のためにいきるのか分からない」
これがこの世の自業苦です。
まず、この世という地獄で抱えている四苦八苦の説明から致しましょう。

「四苦」とは、生老病死の四つをいい、「八苦」はそれに、愛別離苦、怨憎会苦、
求不得苦、五陰盛苦を加えたものです。
生苦とは、生きていることが地獄のような苦しみであり、この世に生を受けたことそれ自体が苦であると指摘されたものです。

世の中、しきりに、地獄だと嘆きが聞こえてきます。
「金さえあればなあ」「もっと物があれば」「有名になりたい」「あのポストが得られれば」「家を持てたら」「恋人が欲しい」などなど。
どうやら地獄の苦しみの原因をそこらに見定めて、それを得ようと、皆懸命に努力しているのですが、果たしてそれで地獄の苦しみが解消できるのでしょうか。
考えさせる小話をひとつ、紹介しておきましょう。

レマン湖のほとりでスイス人が釣りをしていた。だが全然釣れない。しばらく見ていた日本人が、
「何しているんですか」と聞いた。
「いや、魚を釣ろうと思って」と答えると、
「釣れませんね。いっそ底網かけてバーッと捕ったら」と日本人。
「底網かけて捕ってどうする」と逆にスイス人が聞く。
「市場で売ればいいじゃないか」
「儲けてどうする」
「景色がいいからこの辺の別荘を買えばいい」
「別荘買ってどうする」
日本人、いよいよ困って、
「のんびり釣りでもしてればいい」
「私はもう、釣りをしていますが……」
こんな極楽とは程遠い幸福論の破綻は、周囲に満ちています。