地獄と極楽について交互に書いています。
今日は「極楽」の第一回目です。
極楽は天国と同義に考えられていますが、天国とは違い、極楽は仏教用語で阿弥陀仏の浄土を指しています。
では、極楽はどこにあるのでしょう?
阿弥陀経には「西方十万億の仏土(仏の世界)にを越えたところにある」と極楽について説かれています。
なぜ西方に極楽があるのか?
西は、太陽が沈むところ、これが生きとし生けるものすべてが最後たどり着くところ、すなわち往生した後の極楽を象徴しているといわれます。
仏法は「四生の終帰」といわれますが、四生(生きとし生けるものすべて)が最後、帰するところ、それが極楽浄土なのです。
「西方十万億の仏土」の極楽についてこんな話があります。
ある所に和尚と小僧の二人暮しの寺があった。その小僧は和尚のいいつけで毎日毎日トウフを買いに出た。寺の前にある古道具屋のおやじがその小僧にいつも尋ねた。
「小僧どこへ行くのかい」
「トウフ買いに行く」
「毎日毎日トウフばかりじゃないか」
小僧は古道具屋のおやじの質問に閉口してしまい、ある日のこと和尚に、「もうトウフを買いに行くのはいやです」と断った。それに対して和尚は、同じように尋ねられたら「西方十万億の仏土、極楽浄土に行く」と答えなさいと小僧に知恵をさずけた。
和尚の言う通り小僧は、答えた。するとそのおやじ、「何しに行くのじゃ」と質問してきた。その時小僧は思わず、「トウフ買いに行く」と答えて、折角の苦心もばれてしまった。
極楽についての言葉は教えられて知っていても、意味を知らねばなりませんね。
このサイトでは、地獄とか極楽とかよく聞くけれど、そんな世界ってホントにあるの?そもそも地獄、極楽って何?
という疑問に答えようと思います。
「地獄」と「極楽」について交互に書いていきたいと思いますが、最初は「地獄」の方から。
「地獄」とは中国の言葉。インドでは地獄を「ナラカ」といわれ、今日の日本の言葉で「苦しみの世界」のことです。
地獄はこの世にも、死後にもあります。
この世の地獄というのは、毎日が不安で、生きがいのない生活をしている人をいい、これを地獄ヘ堕ちている人といいます。自分の業(行い)が生み出す地獄の苦しみですから、「自業苦」と書くのです。
「苦労してでも育てておけば、老いても大事にしてくれるに違いない」
の思惑が外れて、生んだわが子に虐待され、
「こんなことなら生まなきゃよかった」
「自分ほど業な者はおらん」
と地獄のごとく愁嘆する老母の声は周囲に満ちています。
科学は進歩して物に関しては極楽のように豊かになりましたが、日々、同じことの繰り返しで、
「こんな毎日にどんな意味があるんだろう」
と空虚な心を抱えてこの地獄を暮らしている。満員電車に揺られている人々の中に、心からの晴れやかな極楽といえる笑顔はどれだけあるでしょう。
仕事や子育てにすべてを傾けてきた。地獄とはいえそれなりに充実感はあったけど、”こんなことで往生を迎えていいのか”と思うと、”何かやり残したことがあるのでは?”とスッキリしない心はないでしょうか。
心の奥は、何のために生まれ、生きているのか分からない。”生まれてきてよかった”という生きる喜びもない。そんな心を闇の心というのです。
この現在の地獄は、言葉を変えると
「四苦八苦の人生、何のためにいきるのか分からない」
という“自業苦”です。
次回からはそのことについて書いていきたいと思います。