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	<title>地獄極楽を知る</title>
	<link>http://www.salvationsobe.com</link>
	<description>地獄極楽って何？地獄極楽ってどこ？そんな疑問に答えます</description>
	<lastBuildDate>Thu, 05 Aug 2010 11:07:50 +0000</lastBuildDate>
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	<item>
		<title>地獄と十悪（４）貪欲・・名利の大山</title>
		<description>今日も親鸞会で聞いた話をお伝えしたいと思います。
本居宣長（もとおりのりなが）という歴史上の人物は晩年、
生き神サマと尊敬されていたそうです。

その宣長に使われていた女性が書生に、
「家の先生は、本当に神サマですか」
と真剣な面持ちでたずねました。

書生は「みんなが言っているのだから、間違いないよ」と答えると、
女性は急に泣きだしました。
びっくりして理由をたずねると、
「昨晩、神サマが私の床に入ってこられたので、
　思わず頭をなぐってしまいました。
　その罰が当たったらどうしよう」
ルネ・デカルトは「近代哲学の父」といわれ「理性」について語っています。
ところがデカルトもお手伝いの女性に子供を産ませ、未婚の母にしています。
　
泳ぎ切れない愛欲の広海に溺れているのは、私たちの実相ではないでしょうか？

　　無明煩悩しげくして
　　塵数のごとく遍満す
　　愛憎違順することは
　　高峯岳山にことならず 　　（『正像末和讃』）

（ここで「無明」といわれているのは、欲や怒りの煩悩のこと）

「体一杯、欲や怒りの毒炎を吹いている親鸞。
　自分にしたがう者は愛して近づけるが、反する者は憎んで遠ざける。
　そんな心は高く大きく、高峯岳山と変わらない」
　
煩悩の強さ、罪障の重さを見きわめた深刻な自覚であり、懺悔です。
愛欲の広海に沈没しているのは、いったい誰でしょう？
そんな私は死んだらどうなるのでしょうか。。。 </description>
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			</item>
	<item>
		<title>地獄と十悪（３）貪欲・・刀葉林地獄</title>
		<description> 前回の続きです☆

「あらゆる人は、つねに淫猥なことばかり考え、
　婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、
　卑猥な行為を思いのままにしている。
　
　我が妻を厭い憎んで、他の女をひそかにうかがって
　煩悶の絶えたことなく、愛欲の波は高く寄せかけ、寄せかけ、
　起つも坐るも、安らかでない」

　仏典に説かれている刀葉林地獄（とうようりんじごく）といわれるものは、
　人間のこの愛欲の広海を描かれたものであろう。
　
この地獄へ堕ちた男がふと見ると、天を摩すような大樹がある。
葉は刃のごとく鋭く、焔を吹いている。樹上には好みの女が、満面媚を浮かべて、自分を招いているではないか。罪人のかつての恋人である。

男は恋しさのあまり、居ても立ってもおれず、前後を忘れて木に登ってゆく。すると刀葉が降ってきて、男の肉を割き、骨を刺し、全身血だるまになるが、愛欲はいっそう激しさを増す。
　ヤットの思いで近づいて、満身の力で抱こうとすると、女は忽然と消えうせて、今度は樹の下から声がする。

「あなたを慕うてここまできたわ。なぜ早く来て抱いてくださらないの」

とやさしく誘う。たかが一人の女のために、火を吐く思いで登ってきた純情さが、いじらしく泣けてくるが、愛恋の情はますます燃えさかり、樹を下りようとすると、地上に落下した刀葉が、今度は逆に、上に向かって焔を吐き、寸々分々に肉を徹し、骨を削る。言語に絶する苦痛である。
　ようやく地上に下りると、恋人の姿はそこにはなく、樹上からまた身悶えしながら彼をよぶ。愛欲の広海は果てしなく、限りなく登り下りをくり返し、苦しみつづける地獄であると説かれている。

　別れては恋しく、会えば敵同士となって傷つけあう。満たされなければ渇き、満たせば二倍の度を増して渇く。愛欲の実態をあらわして余すところがない。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

いやあ、恐ろしいですね。

この欲に振り回され、恐ろしいこともやってしまうのですね。

まだまだ続きます。 </description>
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			</item>
	<item>
		<title>地獄と十悪（２）貪欲・・愛欲の広海</title>
		<description>浄土真宗親鸞会で仏教を聞いている友人から貸してもらった本に
次のようなことが書かれてありました。

「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることをよろこばず、真証の証に近くことをたのしまず。恥ずべし、傷むべし（『教行信証』）」
「ああ、情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、名誉欲と利益欲にふりまわされて、〝浄土へ往ける身になった（定聚の数に入る）こと〟をよろこばず、〝仏のさとり（真証の証）に近づいていること〟も、たのしまないとは。どこどこまでも痺れ切った奴だなぁ！　恥ずかしきことよ、悲しきことか」
　二十章から詳しく説明するが、〝浄土へ往ける身になった人〟〝仏のさとりに近づいている人〟とは、後生暗い心（無明の闇）が破れ、人生の目的達成した人のことである。ここで聖人は、「私は浄土へ往ける身になった」「仏のさとりに近づいている」と明言されているから、そんな自覚と確信のある人だけが知らされる、自己であり懺悔であることを、確認しておかなければならないであろう。
　では、「愛欲の広海」とは何を言われたのだろうか。
　一皮むけばウミ血が流れるとわかっていても、美しい女を見たときは、邪淫の心が燃え上がっている、と釈尊は説かれている。

　　　あらゆる人は、つねに淫猥なことばかり考え、婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、卑猥な行為を思いのままにしている。
　　　我が妻を厭い憎んで、他の女をひそかにうかがって煩悶の絶えたことなく、愛欲の波は高く寄せかけ、寄せかけ、起つも坐るも、安らかでない

　仏典に説かれている刀葉林地獄といわれるものは、人間のこの愛欲の広海を描かれたものであろう。
つづく </description>
		<link>http://www.salvationsobe.com/?p=112</link>
			</item>
	<item>
		<title>地獄と十悪（１）貪欲</title>
		<description>地獄と悪の問題は切っても切り離せないでしょう。


仏教では、私たち人間を「煩悩具足の凡夫」（煩悩の塊）と教えます。
百八ある「煩悩」は私たちを「煩わせ悩ませるもの」。
中でも恐ろしいのが貪欲（欲の心）、瞋恚（怒りの心）、愚痴（ねたみそねみの心）の
三毒の煩悩です。

今日はその最初の貪欲（とんよく）についてです。


おいしいものが食べたい、

お金が欲しい、

財産を得たい、

愛されたい、

褒められたい

楽したい。

欲望は際限なく広がります。

水がものを潤し、深さも知れないようなものですから、

欲は青色で表されます。朝から晩まで私たちは、この心に動かされてはいないでしょうか？


芥川龍之介の有名な小説『蜘蛛の糸』には、欲の本性が描かれています。

血の池地獄で苦しむ大泥棒・カンダタを救おうと、
極楽の蜘蛛の糸を、お釈迦さまは地獄に垂らされました。
カンダタはその糸を上って地獄から逃れようとします。

途中でふと足下を見ると、何とたくさんの罪人たちが、
後から上がってくるではありませんか。

カンダタは驚いて叫ぶ。

「おまえたち、だれの許しを受けて上ってきた。この蜘蛛の糸はオレのものだ。下りろ」

こう喚いた、その時、今まで何ともなかった糸が手元でプツンと切れた。


あわれカンダタは、多くの罪人もろとも、血の池地獄へ再び堕ちていったのです。

自分ばかり地獄からぬけ出そうとする彼の無慈悲な心を、
お釈迦さまは浅ましく思召されたのでしょう、と物語は結ばれています。

このカンダタのような心を、「我利我利（がりがり）」と仏教では教えられます。

「我が利益」ばかり追い求め、自分さえよければ他人はどうなろうと構わない心です。
　余裕のある時は人に譲る気持ちも起きますが、保身や利害にかかわるギリギリの局面ではどんな心が起きるか。よくよく自己を見つめてみましょう。

この前、参加した親鸞会のお話では、この自分の心について詳しく教えられていました。
 </description>
		<link>http://www.salvationsobe.com/?p=110</link>
			</item>
	<item>
		<title>地獄と五逆罪（４）</title>
		<description>五逆罪は地獄行きのタネだと仏教で教えられています。

五逆罪とは、五つの恐ろしい罪ということで、
次の五つをいいます。

殺父 - 父殺し。
殺母 - 母殺し。
殺羅漢 - 羅漢殺し。
和合僧を破る
佛身より血を出だす

この中の一つでも犯せば、五逆の罪を犯したことになります。
大恩ある親を殺せば、恐ろしい五逆罪です。

親の恩は、山よりも高く、海よりも深いといわれます。

その大恩ある両親を殺すことは大変恐ろしい罪なのです。 </description>
		<link>http://www.salvationsobe.com/?p=130</link>
			</item>
	<item>
		<title>地獄と五逆罪（３）</title>
		<description>五逆罪は地獄行きのタネだと仏教で教えられています。

五逆罪とは、五つの恐ろしい罪ということで、
次の五つをいいます。

殺父 - 父殺し。
殺母 - 母殺し。
殺羅漢 - 羅漢殺し。
和合僧を破る
佛身より血を出だす

この中の一つでも犯せば、五逆の罪を犯したことになります。
大恩ある親を殺せば、恐ろしい五逆罪です。
親鸞聖人は

 「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」（末灯鈔）

と教えられ、手にかけずとも、心で殺せば、それも五逆の罪
なのだと教えておられます。

「殺るよりも劣らぬものは思う罪」

手にかけて殺すよりも、心で殺すほうが恐ろしいと
仏教では教えられるのです。 </description>
		<link>http://www.salvationsobe.com/?p=128</link>
			</item>
	<item>
		<title>地獄と五逆罪（２）</title>
		<description>五逆罪は地獄行きのタネだと仏教で教えられています。

五逆罪とは、五つの恐ろしい罪ということで、
次の五つをいいます。

殺父 - 父殺し。
殺母 - 母殺し。
殺羅漢 - 羅漢殺し。
和合僧を破る
佛身より血を出だす

この中の一つでも犯せば、五逆の罪を犯したことになります。
大恩ある親を殺せば、恐ろしい五逆罪です。

手にかけて殺せばもちろん親殺しですが、
心で邪魔だなと思うだけでも五逆の罪であると
親鸞聖人は

 「親をそしる者をば五逆の者と申すなり」（末灯鈔）

と教えられています。 </description>
		<link>http://www.salvationsobe.com/?p=125</link>
			</item>
	<item>
		<title>五逆罪と地獄（１）</title>
		<description>五逆罪は地獄行きのタネだと仏教で教えられています。

五逆罪とは、五つの恐ろしい罪ということで、
次の五つをいいます。

殺父 - 父殺し。
殺母 - 母殺し。
殺羅漢 - 羅漢殺し。
和合僧を破る
佛身より血を出だす

この中の一つでも犯せば、五逆の罪を犯したことになります。
大恩ある親を殺せば、恐ろしい五逆罪です。

金属バットで親を殴りころしたとか、
年老いた親を刺し殺したという痛ましい事件が
聞こえてまいりますが、大変な恐ろしい罪なのです。

先日、親鸞会のお話でも、この恐ろしい五逆の罪について
教えてもらいました。 </description>
		<link>http://www.salvationsobe.com/?p=122</link>
			</item>
	<item>
		<title>どういう人が極楽にいけるの？</title>
		<description>どういう人が極楽にいけるのでしょうか？

「死んだら極楽」「死んだら仏」と思っている人も多いようですが

仏教は、生きている現在、ただ今のことを教えられているのです。



親鸞聖人の教えを、ひとことで、
「平生業成」
といいます。これは聖人の教えから出た言葉であり、浄土真宗の一枚看板です。
「平生」とは、現在ただ今のこと。

　次の「業」は、人生の大事業、生きる目的のこと。
「大事業」と聞くと、松下幸之助さんや、徳川家康の天下統一の事業を思い出すでしょうが、人生の大事業とは、何はなくてもこれ一つ、一人一人が人と生まれて果たさねばならぬ大事をいいます。
　仏教を説かれたお釈迦さまも、親鸞聖人も、生涯、これ一つを教えていかれました。
　それは、大宇宙のすべての仏の本師本仏である阿弥陀仏が、必ず絶対の幸福に救うと誓われている。そのお約束どおりに救われることです。
　しかも、その救いは死後ではない、現在ただ今、完成するのだ、と最後に「成」の一字で表されています。
　完成の「成」であり、成就のことです。人生には目的がある。それはただ今、完成できる。だから早く完成しなさいよ、とのお勧めです。
　ところがこう聞くと、
「人生に目的などあるか」
「この世で助かるなんて考えられない」
と思う人も多いでしょう。
　確かに、私たちが日々、必死に取り組み、高みを目指してしのぎを削っている政治や経済、科学、医学、学問、芸術、武道やスポーツなどには完成、卒業ということは聞きません。
オリンピックに、金メダルを狙う世界中のトップ選手が集います。しかし、たとえチャンピオンになっても、その道を極めたのではなく、卒業したのでもありません。
　これらは、
「死ぬまで求道」
といわれ、生涯、求め続けねばならぬ道なのです。
　ちょっと聞くとこれは、立派で魅力的に思えますが、よく考えればおかしなこと。安心、満足を欲して、私たちはさまざまなものを求めます。求めるのは、求まることが前提のはず。もし求まった、ということがなければ、一生、苦しみ続けねばならないからです。
「求まらなくてもいい。死ぬまで向上、求める過程が素晴らしい」
といわれるような一時的な充実と、人生の目的達成の喜びとは全く異質のものなのです。
　この人生の目的の厳存と、完成のあることを明らかにされた親鸞聖人の教えを
「平生業成の教え」
といい、それこそが人類の光といわれるのです。 </description>
		<link>http://www.salvationsobe.com/?p=108</link>
			</item>
	<item>
		<title>この世のジゴクと死んでかららジゴク</title>
		<description>この世の自業苦と、死んでからの地獄とがある、と書いてきました。

同じように、この世のゴクラクと、死んでからの極楽があると

仏教では教えられています。

現在の延長が未来ですから、現在の自業苦が救われなければ、
未来の地獄は助かりません。

眼前の小川さえ渡れないのに、どうしてその先の大きな川が渡れるでしょう。

身近な例えでいえば、

「一万円のダイヤの指輪は買えないけど、百万円のなら買えるわ」

こんなおかしな人は、ありえないですよね。
百万円の物が買える財力があれば、一万円の買い物は余裕でできるはずです。
同様に、死後の大変な苦悩を救う力のある仏さまならば、この世せいぜい百年の
苦しみを、助けられないはずがありません。

だから、
「この世はどうにもなれない、死んだらお助け」
などと言っているのはおかしいのです。

　この世どうにもなれない人が、死んでどうなれましょうか。
「現在は自業苦だが、死後は極楽へ往ける」ことは絶対にない。
　今の苦しみが救われ、業苦が楽に転じて「業苦楽」に生かされた人だけが、
死ねば必ず「極楽」へ往けるのです。

生きている平生に救われる「平生業成」の教えこそが、真実の仏法の真骨頂
になっているのも、お分かりでしょう。 </description>
		<link>http://www.salvationsobe.com/?p=105</link>
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