Archive for the ‘この世の地獄とは/地獄極楽’ Category

年が明けたと思ったら、もう、年末が近づいてまいりました。

年末の時代劇で、よく放映されるのが『忠臣蔵』。日本人に大人気です。
江戸時代に起きた大事件ではありますが、現代版の『忠臣蔵』は、私たちの日常でも起こりうる悲劇といえるでしょう。

何でもない日常が、地獄となってしまう悲劇を知らされる話です。どんなことが起きたのか、振り返ってみましょう。

元禄14年3月14日。江戸城、松の廊下に、鮮血がほとばしった。

35歳の浅野内匠頭が、突然、
「おのれ! この恨み……」
と叫んで、61歳の吉良上野介に斬りかかったのでした。

抜いてはならぬところで刀を抜かせたのは、浅野内匠頭の怒りの心でした。

「ここで刀を抜いたら、わが身は切腹、家名は断絶が掟」とは、百も千も承知していましたが、浅野内匠頭は、やってしまったのです。

なぜ、怒りを抑えることができなかったのでしょうか。

浅野内匠頭は、赤穂藩5万3千石の大名。わずか9歳で3代藩主となり、「殿様」としての教育を受けてきました。常にトップであり、他人に頭を下げることなど、ほとんどない境遇で育ってきたのです。

刃を向けられた吉良上野介のことを、時代劇では「高家筆頭」と呼んだりしますが、「高家」とは、幕府の儀式・典礼を司る役職のことです。上野介は、高家のトップで、高い官位を持っていました。しかも、吉良家は鎌倉時代から続く名門であり、気位の高い人物であったといいます。

江戸城では、毎年3月に、京都から朝廷の使者(勅使)を迎えて盛大な儀式が行われます。
2人の衝突は、浅野内匠頭が、この年の「勅使饗応役」に任命されたことに始まります。饗応役とは、一行の出迎え、食事、宿泊などの接待係だ。名誉ともいえるが、一切の経費は担当する大名が負担することになっていました。しかも、粗相があっては幕府の威信にかかわるので、絶対に失敗は許されません。大名にとっては、実に頭の痛い任務だったのです。

内匠頭は、一度は、幕府に対して、
「私は格式や儀礼を、よくわきまえておりません。まして若輩の身です。何とぞ、この任務は、別の者に任命していただけないでしょうか」
と辞退を申し出ました。しかし、次のように諭されています。
「その心配は要らぬ。毎年、饗応役に命じられた者は、皆、吉良上野介の指南を受けて、滞りなく務めておる。そなたも、すべて、上野介の指図に従えばよいのだ」
つまり、吉良上野介は、浅野内匠頭が、ミスをしないように、指導、監督する立場にあったのです。

このようなところから、いったい、どのようにあの地獄の悲劇に展開していったのか、次回に続きます。

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地獄を生み出す恐ろしい種まきを、仏教では悪い行為として、詳しく教えられています。
私たちは日々、いろいろの罪悪を犯して生きていますが、それを10にまとめて教えられたのが十悪です。

前回から、心で犯す罪悪の2番目に教えられる「瞋恚(しんに)」について話をしています。

瞋恚とは怒りの心のことです。欲が邪魔されるとカッとなりますが、その心のことです。

あいつのせいで儲け損なった、こいつのせいで恥かかせられたと、欲が邪魔されると、怒りの心が燃え上がります。

以前、こんな事件があり、新聞に載っていました。
「接客態度が悪い」などと何度もクレームをつけてきた客を、ある牛丼店店長が包丁で刺殺したのです。プライド(名誉欲)を傷つけられた怒りは狂気の炎となり、前後の見境もなく暴挙に走らせ、このような恐ろしい行為をさせたのでしょう。

また、福岡県の臨済宗の寺院でのことです。その寺が放火に遭い、犯人を捕まえたところ、何と、捕まったのは、その寺の“修行僧”でした。
「日ごろのうっぷんがたまっていた」と、その“修行僧”は供述したといいます。
「座禅」で煩悩の火を消すどころか、自分の寺に火をつけてしまうとは、まことに恐ろしいのは瞋恚の猛炎です。

離婚話にカッとなった男が、部屋に灯油をまき、火をつけ、妻も子供も焼き払った事件がありましたが、そのような残虐な行為も、この瞋恚の心のなせる業です。

地獄は死後のみ、架空のおとぎ話とばかり思っていたらとんでもないことです。
恐ろしい行為が、恐ろしい地獄をこの世から生み出し、そして死後も、自らの業が生み出した苦しみの世界(地獄)へと堕ちていかねばならないのです。

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お釈迦様は、私たちの犯すいろいろの罪悪をまとめて十悪を教えられています。その1番目の貪欲(とんよく)を詳しく解説をしています。

これまで名誉欲が生み出すこの世の地獄について解説をしてきました。
今回から利益欲に焦点をあてて、解説をしたいと思います。

利益欲とは、財欲とも言われて、お金が欲しい、物が欲しい、という欲のことです。

数年前、奈良市の43歳の看護師が、15歳の長女に毒茶を飲ませ、殺害しようとした疑いで逮捕されました。長女には3千万円の保険金が掛けられていました。この白衣の母親は、その3年前にも、当時15歳の長男と9歳の次女を同じ手口で殺し、2千万円の保険金を受け取っていたといいます。

大会社の部長を務める長男と同居する、80過ぎの男性が、体調をこわし精密検査の結果、肝臓ガンと診断されました。どうせ長い命はなかろうと、手術を勧め入院させた長男は、同時に死亡通知先の名簿をととのえます。
息子が息子なら嫁も嫁、義父の定期預金を無断解約し、入院手術の経費に充てる始末。
ところが術後の経過は良好で無事退院。
息子も嫁も、「案外じゃったのう」のガッカリ顔には、微塵の罪悪感も見当たらりません。
親よりもお金が大事な、利益欲の非情さといえるでしょう。

遺産相続で兄弟や親戚同士、骨肉相食む争いは、この利益欲の心が引き起こす地獄です。

次回も、利益欲の生み出す地獄について解説をします。

地獄には、この世の自業苦と死んでからの地獄があるといわれますが、まず、この世の地獄(自業苦)について書いています。

この世の地獄(自業苦)を四苦八苦で教えられていますが、7番目は求不得苦(ぐふとっく)です。

これは求めるものが得られぬ苦しみです。

みんな色々なものを求めていますよね。

おいしいものを、安く、たらふく食べたい

使い切れないほどお金が欲しい

マイホームを建てたい

あの服が欲しい、

携帯を新機種にしたい

パソコンももっと上等なものにしたい

高級車を乗り回したい

彼女が欲しい

彼氏が欲しい

結婚したい

上司の鼻をあかしたい

ヒーローになりたい

皆に振り向かれたい

ゆっくり寝たい

遊びまくりたい

などなど
あげればキリがないと言っていいでしょう。

ところがところが、
実際にその願いが叶うってことはほんのわずかではないでしょうか?

たとえ願いがかなっても、思っていたほどの満足が得られなかったり、、、

と、求不得苦の人生を歩んでいるのは私だけじゃないはず???

この生きにくい人生を親鸞聖人は和讃に

“生死の苦海ほとりなし”(しょうじのくかいほとりなし)

と書かれています。
苦しみの海にはほとりがない、果てがないということですね。

これが7番目の、この世の自業苦(ジゴク)求不得苦(ぐふとっく)です。

地獄における四苦八苦の4番目「死苦」は説明の都合上最後にさせていただきますね。

今日は愛別離苦。
愛別離苦とは、愛が別離することの苦しみで、愛情破綻の地獄の苦をいいます。失恋の痛手を地獄として、自殺する者すらあるくらいです。
二十年もの間、釈尊に師事し、すでに凡情を超越していた阿難尊者でさえ、釈尊がお亡くなりになった時、悲嘆やる方なく、人事不省(意識不明)になられたといいますから、この苦痛もやはり地獄。決して生易しいものではありません。
親が子を失うとか子が親に離れるとか、夫婦、兄弟、朋友知己、その他、死に別れ生き別れ等々、考えるだけでもそら恐ろしく、いずれも耐え難き地獄の苦痛です。

ところが、愛し合いむつみ合っていてそれを極楽と思っていても、いずれは別れねばならぬかと思えば、一方で、好ましからぬ人と一緒に暮らさねばならぬ、という地獄の苦しみもあります。つまりこれは本当の極楽ではなかったということですね。

嫌な人と会わねばならない苦しみは八苦の怨憎会苦に含まれることですが、愛と憎という感情は常に紙一重であり、ときには同じことを指していることも珍しくはありません。夫を愛するがゆえに浮気という行いを憎むことがあれば、あまりに強く愛するがゆえにストーカー行為にまで及んでしまうケースもあり、これもまた地獄といえます。
これも、幸福と不幸の隣り合わせであり、生きるとは何かを考えさせられる。これもやはり地獄でしょう。

人を愛することの陰には必ず苦しみがつきまとい、それが地獄と思われます。
恋をしても告白できずに悩むことも、その苦しみのひとつです。
こういったこの世ならではの地獄の苦しみのひとつひとつを取り除くべく、親鸞会は仏教を正しく推進しているのですね。

厚生労働省による調査で、家庭内での高齢者虐待の実態が明らかになりました。
被害は1年で1万2000件に上り、被害者の8割が女性だったといいます。
息子による虐待が37%と最も多く、娘の14%と合わせて、実子からの被害が全体の半数を占めています。
この数はまだ”氷山の一角”との指摘もあり、さらに増えていく可能性が高いと見られています。

“まだ若いから、老後なんて先のこと”と言っている人も、年齢に関係ないのが地獄の病苦。病はスキあらば私たちの体をむしばむからです。
世を挙げての健康ブームも、裏を返せば、病が不安だからでしょう。有機栽培の野菜が飛ぶように売れ、体に悪い添加物など取らないように、と食品の表示を確認する目も真剣そのものです。ある食品がテレビ番組で体にいいと紹介されると、たちまち人々がスーパーに殺到し、売り切れ続出ということもしばしば。今年初めの人気番組の捏造も、地獄から逃れようという健康への関心が、高い視聴率となるからでしょう。
しかし、どんなに気をつけても、「人間は病の器」。医学が長足の進歩を遂げている今日も病はなくなりません。忙しい時は、”病気にでもなってしばらく入院したい”と思う人もあるでしょうが、いざ病気にかかると、地獄といえるほどつらいことはないものです。どんな病気でも本人の苦痛は”甲乙つけ難い”という意味で、「病」の字は「(やまいだれ)」の中に「丙」と書くともいわれます。
病気になったら、昨日までの健康は極楽だったなどと喜べません。肉体はやせ衰え、立ち居ふるまいもままならず、痛苦にさいなまれて地獄と思うことに。飲食や便通も人の助けが必要になることもあります。またこの世の地獄にありがちなストレスによって心の病を抱えることにもなり生きがいを失うことにもかねません。
そうならないように、病気が発症しないうちから注意を促す予防医学も今日注目され、地獄を極楽として生きようという提案がなされています。

日々、確実に老いてゆく老苦は、この地獄における老いの苦しみです。歳をとれば目は薄く、耳は遠くなり、身体は思うように動かなくなります。「年寄り笑うな行く道じゃ」と言われるように、老いは自分の行く末。往生までに誰にも待ち受ける運命なのです。

「面影の 変わらで年の つもれかし たとえ命に 限りあるとも」
と詠んだのは、平安の美女・小野小町ですが、切々たる老苦の訴えが聞こえてくるようですね。絶世の美女でも老いには勝てず、少しでもシワができようものなら、命の縮まるような、それこそ地獄の思いがしたのではないでしょうか。
世界三大美女に数えられる、残りの二人の楊貴妃やクレオパトラも、美しくあろうと努力を重ねる傍ら、常にやがて来る老いに地獄のごとく恐れていました。
美しくありたいのは女性の本願。整形手術や毎日の化粧で、極楽のような生にしようと大変なことです。ところが、一生で本当に綺麗と言えるのは、数年で、まさに花の命であり、刻々と老い、極楽とは程遠い地獄とも思える苦しみが一日一日多くなっているのです。

今現在がどんなに極楽だと楽しく思おうとも、楽しいがゆえに隣り合わせの地獄に怯える。これは、先日お話した裕福ゆえの地獄の苦しみについてもいえることです。
この世すら地獄の人は阿弥陀仏に救われない限り、極楽にいくことは出来ないのです。
こんな人生、なぜ生きる必要があるのか・・・ここにこの世の地獄があるのです。
不幸から逃れ得ることのないこの世という名の地獄。ここから極楽へ往生させてくださるのが阿弥陀仏であり、その教えを伝えているのが仏教です。
仏教の法話を聞くことが、この地獄から逃れて極楽へと往く唯一の道なのです。

無ければないことを苦しみ、有ればあることで苦しむ。

大方がそう思うように、金や物、名誉や地位のないのが地獄の苦しみの根元ならば、それらに恵まれた人生は、極楽のごとくよろこびに輝いていたに違いありません。実際はどうでしょう。歴史の証言も豊富ですが、現実も目に余るものがあります。

イギリス王室の華・ダイアナ妃の、自殺未遂は五回にも及んだといいます。美貌といい、シンデレラストーリーといい、”世紀の結婚”とまでうらやまれてさぞ極楽であろうと思われた彼女も、人知れずこの世という地獄に苦しむ、一個の人間でしかありませんでした。ノーベル文学賞に輝いたヘミングウェイ(アメリカ)の自殺は世人を驚かせました。氏もまたこの世という地獄で苦悩していたのでしょう。

田なければ、また憂いて、田あらんことを欲し、宅なければ、また憂いて、宅あらんことを欲す。田あれば田を憂え、宅あれば宅を憂う。牛馬・六畜・奴婢・銭財・衣食・什物、また共にこれを憂う。有無同じく然り
(大無量寿経)

「田畑や家が無ければ、それらを求めて苦しみ、有れば、管理や維持のためにまた苦しむ。その他のものにしても、皆同じである」
金、財産、名誉、地位、家族、これらが無ければないことを地獄だと苦しみ、有ればあることでそれも地獄だと苦しむ。有る者は”金の鎖”、無い者は”鉄の鎖”で地獄につながれているといってもよいでしょう。材質が金であろうと鉄であろうと、極楽に憧れて地獄に苦しんでいることに変わりはありません。
これを釈尊は「有無同然」と説かれています。
どれほどの財宝や権力を手にして極楽と思えても、本当の地獄の苦悩の根元を知り、取り除かない限り(往生しない限り)人生の重荷は下ろせない・・・地獄から極楽へと逃れることはできないでしょう。

「こんな苦しい人生なぜ生きる」のこの世の地獄を知ることが、本当の極楽を知ろう、の心につながるのです。

地獄には、この世の自業苦と死んでからの地獄があるといわれます。
お釈迦さまはこの世(地獄)の苦しみを四苦八苦で教えておられますが、
「四苦八苦の人生、何のためにいきるのか分からない」
これがこの世の自業苦です。
まず、この世という地獄で抱えている四苦八苦の説明から致しましょう。

「四苦」とは、生老病死の四つをいい、「八苦」はそれに、愛別離苦、怨憎会苦、
求不得苦、五陰盛苦を加えたものです。
生苦とは、生きていることが地獄のような苦しみであり、この世に生を受けたことそれ自体が苦であると指摘されたものです。

世の中、しきりに、地獄だと嘆きが聞こえてきます。
「金さえあればなあ」「もっと物があれば」「有名になりたい」「あのポストが得られれば」「家を持てたら」「恋人が欲しい」などなど。
どうやら地獄の苦しみの原因をそこらに見定めて、それを得ようと、皆懸命に努力しているのですが、果たしてそれで地獄の苦しみが解消できるのでしょうか。
考えさせる小話をひとつ、紹介しておきましょう。

レマン湖のほとりでスイス人が釣りをしていた。だが全然釣れない。しばらく見ていた日本人が、
「何しているんですか」と聞いた。
「いや、魚を釣ろうと思って」と答えると、
「釣れませんね。いっそ底網かけてバーッと捕ったら」と日本人。
「底網かけて捕ってどうする」と逆にスイス人が聞く。
「市場で売ればいいじゃないか」
「儲けてどうする」
「景色がいいからこの辺の別荘を買えばいい」
「別荘買ってどうする」
日本人、いよいよ困って、
「のんびり釣りでもしてればいい」
「私はもう、釣りをしていますが……」
こんな極楽とは程遠い幸福論の破綻は、周囲に満ちています。