Archive for the ‘極楽についてQ&A/地獄極楽’ Category

Q 極楽はおとぎ話ではないのですか。

A 極楽浄土には、金色さん然と輝く宮殿楼閣や、金銀の大地に八功徳水の蓮池があると、『阿弥陀経』に説かれています。
現代人には、そんな極楽という世界は信じられないと、思う人もあるでしょう。仏の境界である極楽は、人間界と大変異なるので、お釈迦さまは、時には、極楽を「説くべからず」とおっしゃり、随分極楽の表現に悩まれたようです。犬や猫にパソコンの技術を説明するより、極楽の説明は困難だったことでしょう。しかし、説いても分からぬからと説かずにいては、衆生に極楽を知らせることはできません。
そこで、釈尊は人間界で見聞しているもので、極楽浄土を例えられたのです。これを、「余方因順」といいます。
「余方」とは、仏が説かれる相手の世界、「因順」とは、それに順って、との意です。人間には、金銀財宝で極楽を例えられましたが、猫を相手に極楽を説明するならば、「猫の参るお浄土は、宮殿楼閣みなカツオ、猫もあきれてニャムアミダ」となるでしょう。

死んだらどうなるのだろう?という疑問について、死ねば往生して誰でも極楽に往って仏になれる、という迷信が広まってしまっています。
この世が地獄だからといって自ら死を選んで往生を目指すことはお釈迦さまも望んではいません。世に蔓延っている自殺サイトも、往生する方法を探すためではなく、生死について深く考えるためにこそあるのだと私は思います。
お釈迦さまが『大無量寿経』に、「易往而無人(いおうにむにん)」とおっしゃっているのを、親鸞会でなら詳しく教えられていますが、そうでない人たちは知らないのでしょう。
弥陀の極楽浄土へは「往き易いけれども、往っている人が少ない」という意味ですが、これはスッとはよめないですね。
「往き易い」のならば、極楽には「人が多い」はずだし、「少ない」とすれば、極楽へ「往き易い」とはいえないからです。
では、釈尊の金言は何を意味するのでしょう。
浄土へ「往き易い」と言われるのは、この世で阿弥陀仏に救われた人(信心決定した人)のことです。他力の信心一つで必ず極楽浄土へ往けるから「往き易い」のですが、この世という地獄の世界において阿弥陀仏に救われた人がめったにいないので、極楽は「人なし」と言われているのです。
肝心の信心決定を説き勧める人は雨夜の星です。
幸いに、「信心をとれ」と命懸けで教えられる方にお会いできても、よく聞く人がまたいない。皆「易往」だけを読んで、「而無人」の三文字を誰も読めないのでしょう。

Q 極楽には、なぜ蓮の華が咲いていると説かれているのでしょうか。

A 「池の中に蓮華あり、大さ車輪の如し」(阿弥陀経)
とあるように、極楽には、蓮の華が咲いていると説かれています。また、極楽に生まれる人は、蓮の台に忽然と生まれるので「蓮華化生」といいます。それは、蓮の華が、往生した後に極楽へ生まれる人の、正しい信心の特徴を表しているからです。正しい信心とは、阿弥陀如来から賜る他力の信心です。生きている今、蓮のような正しい信心を獲得している人だけが、一息切れて往生すると同時に、極楽浄土の蓮台に仏として生まれさせていただけること、それが極楽への往生だとよく知ってください。

Q 極楽には、なぜたくさんの鳥がいるのでしょうか。

A 確かに阿弥陀仏のお浄土である極楽には、カリョウビンガの鳥や、共命の鳥など、たくさんの鳥がいると、『阿弥陀経』に説かれていますが、牛や豚や犬が極楽にいるとは説かれていません。どうしてでしょう。次のような蓮如上人のお言葉があります。
「物を言え物を言え。物をいわぬ者は恐ろしき。信・不信ともにただ物を言え。物を申せば心底も聞え、また人にも直さるるなり。ただ物を申せ」
物を言わぬ人は恐ろしい人だとまで蓮如上人はおっしゃっていますから、仏法者は、いつでもハッキリと物を言うことが大切です。ありのままの心中をさらけ出し、分からぬことは納得するまで聞くことが肝心でしょう。
その点、鳥は、そのつど、飛びながらでも脱糞する気の軽い動物ですが、牛や豚や犬は、タメ糞して一度に放出します。
言いたいことを言わずに、心の奥深くためている人は救われざる人か。その時その時の心中を、洗いざらい言える気の軽い人が、弥陀の本願に相応し、それが極楽に表現されたのでしょう。