Archive for the ‘極楽とは/地獄極楽’ Category

「極楽」は、いろんな言葉で表現されています。
例えば「浄土」も「極楽」のことですね。
合わせて「極楽浄土」ともいわれます。
また「極楽」のことを「安養(あんにょう)」ともいわれます。
たとえば、親鸞聖人のご遺言に「御臨末の御書(ごりんまつのごしょ)」と
いわれるものがありますが、そこにはこう書かれています。

「我が歳きわまりて、安養の浄土に還帰(げんき)すというとも、
 和歌の浦曲(うらわ)の片男浪(かたおなみ)の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
 一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、
 その一人は親鸞なり」

ここで「安養の浄土」と書かれているのが「極楽浄土」、「極楽」のことです。
大体の意味はこうなります。

〝親鸞、いよいよこの世の終わりが来た。
一度は弥陀の浄土へ帰るけれども、寄せては返す波のように、すぐさま戻ってくるからな。
一人いる時は二人、二人の時は三人と思ってくだされ。
嬉しい時も悲しい時も、決してあなたは一人ではない。いつもそばに親鸞がいるからね〟

なんとも優しいお言葉ではありませんか。
親鸞さまが隣にいて下されればこんな心強いことはありませんし、こんなに嬉しい
ことはありません。

親鸞聖人は極楽へいかれても八功徳水(はっくどくすい)の温泉につかって、
百味の飲食(ひゃくみのおんじき)たらふく食べて、ゆっくりなどはしない。
寄せては返す無限の波のように、この娑婆へすぐに戻ってくる。
弥陀の本願を伝えるため、一人残らず本当の幸福に導くまでは、とてもじっとして
などおれないのだ、とおっしゃっているのです。

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親鸞会でも地獄、極楽について教えられていますが、地獄、極楽って実際のところなんなのでしょう?
すくなくとも「極楽」と「天国」は違いますし、キリスト教でいわれる「煉獄」という世界と「地獄」も違うものです。
そのことについて少しずつ書いていきたいと思います。

地獄には、この世の自業苦と死んでからの地獄があるといわれますが、まず、この世の地獄(自業苦)について書いています。

この世の地獄(自業苦)を四苦八苦で教えられていますが、その6番目は怨憎会苦です。

これは嫌な人、憎らしい人、きらいな人と会わねばならないという苦しみです。
人間関係の悩みというのはいつの時代も変わらず、家庭内、職場、学校、などなど深刻な悩みはつきものです。
なかにはイジメにあって自殺してしまう人もあるくらいです。
肉体の傷はまだ治せるが、心の傷はなかなか治せない、といわれますが、嫌いな人から嫌味をいわれたり、皮肉やら、冷たい言葉をかけられると、一日、いやずっと嫌な思いをしてしまう人は決して少なくないでしょう。
まさにこの世の地獄です。

この生きにくい人生を親鸞聖人の教行信証には“難度海”と書かれています。
苦しみの波が次から次へとやってくる、渡り難い海のようなところが人生だと言われているのです。
その難度海の人生を明るく楽しく渡しきる、大きな船があることを教行信証の冒頭には

「難思の弘誓は難度海を度する大船」

とハッキリ書かれているのです。
親鸞会の講演会ではよくこの話がなされています。
どういう意味なのかは、またの機会に書きたいと思います。

Q 極楽はおとぎ話ではないのですか。

A 極楽浄土には、金色さん然と輝く宮殿楼閣や、金銀の大地に八功徳水の蓮池があると、『阿弥陀経』に説かれています。
現代人には、そんな極楽という世界は信じられないと、思う人もあるでしょう。仏の境界である極楽は、人間界と大変異なるので、お釈迦さまは、時には、極楽を「説くべからず」とおっしゃり、随分極楽の表現に悩まれたようです。犬や猫にパソコンの技術を説明するより、極楽の説明は困難だったことでしょう。しかし、説いても分からぬからと説かずにいては、衆生に極楽を知らせることはできません。
そこで、釈尊は人間界で見聞しているもので、極楽浄土を例えられたのです。これを、「余方因順」といいます。
「余方」とは、仏が説かれる相手の世界、「因順」とは、それに順って、との意です。人間には、金銀財宝で極楽を例えられましたが、猫を相手に極楽を説明するならば、「猫の参るお浄土は、宮殿楼閣みなカツオ、猫もあきれてニャムアミダ」となるでしょう。

死んだらどうなるのだろう?という疑問について、死ねば往生して誰でも極楽に往って仏になれる、という迷信が広まってしまっています。
この世が地獄だからといって自ら死を選んで往生を目指すことはお釈迦さまも望んではいません。世に蔓延っている自殺サイトも、往生する方法を探すためではなく、生死について深く考えるためにこそあるのだと私は思います。
お釈迦さまが『大無量寿経』に、「易往而無人(いおうにむにん)」とおっしゃっているのを、親鸞会でなら詳しく教えられていますが、そうでない人たちは知らないのでしょう。
弥陀の極楽浄土へは「往き易いけれども、往っている人が少ない」という意味ですが、これはスッとはよめないですね。
「往き易い」のならば、極楽には「人が多い」はずだし、「少ない」とすれば、極楽へ「往き易い」とはいえないからです。
では、釈尊の金言は何を意味するのでしょう。
浄土へ「往き易い」と言われるのは、この世で阿弥陀仏に救われた人(信心決定した人)のことです。他力の信心一つで必ず極楽浄土へ往けるから「往き易い」のですが、この世という地獄の世界において阿弥陀仏に救われた人がめったにいないので、極楽は「人なし」と言われているのです。
肝心の信心決定を説き勧める人は雨夜の星です。
幸いに、「信心をとれ」と命懸けで教えられる方にお会いできても、よく聞く人がまたいない。皆「易往」だけを読んで、「而無人」の三文字を誰も読めないのでしょう。

Q 極楽には、なぜ蓮の華が咲いていると説かれているのでしょうか。

A 「池の中に蓮華あり、大さ車輪の如し」(阿弥陀経)
とあるように、極楽には、蓮の華が咲いていると説かれています。また、極楽に生まれる人は、蓮の台に忽然と生まれるので「蓮華化生」といいます。それは、蓮の華が、往生した後に極楽へ生まれる人の、正しい信心の特徴を表しているからです。正しい信心とは、阿弥陀如来から賜る他力の信心です。生きている今、蓮のような正しい信心を獲得している人だけが、一息切れて往生すると同時に、極楽浄土の蓮台に仏として生まれさせていただけること、それが極楽への往生だとよく知ってください。

Q 極楽には、なぜたくさんの鳥がいるのでしょうか。

A 確かに阿弥陀仏のお浄土である極楽には、カリョウビンガの鳥や、共命の鳥など、たくさんの鳥がいると、『阿弥陀経』に説かれていますが、牛や豚や犬が極楽にいるとは説かれていません。どうしてでしょう。次のような蓮如上人のお言葉があります。
「物を言え物を言え。物をいわぬ者は恐ろしき。信・不信ともにただ物を言え。物を申せば心底も聞え、また人にも直さるるなり。ただ物を申せ」
物を言わぬ人は恐ろしい人だとまで蓮如上人はおっしゃっていますから、仏法者は、いつでもハッキリと物を言うことが大切です。ありのままの心中をさらけ出し、分からぬことは納得するまで聞くことが肝心でしょう。
その点、鳥は、そのつど、飛びながらでも脱糞する気の軽い動物ですが、牛や豚や犬は、タメ糞して一度に放出します。
言いたいことを言わずに、心の奥深くためている人は救われざる人か。その時その時の心中を、洗いざらい言える気の軽い人が、弥陀の本願に相応し、それが極楽に表現されたのでしょう。

地獄と極楽について交互に書いています。
今日は「極楽」の第一回目です。

極楽は天国と同義に考えられていますが、天国とは違い、極楽は仏教用語で阿弥陀仏の浄土を指しています。
では、極楽はどこにあるのでしょう?
阿弥陀経には「西方十万億の仏土(仏の世界)にを越えたところにある」と極楽について説かれています。

なぜ西方に極楽があるのか?
西は、太陽が沈むところ、これが生きとし生けるものすべてが最後たどり着くところ、すなわち往生した後の極楽を象徴しているといわれます。
仏法は「四生の終帰」といわれますが、四生(生きとし生けるものすべて)が最後、帰するところ、それが極楽浄土なのです。

「西方十万億の仏土」の極楽についてこんな話があります。

ある所に和尚と小僧の二人暮しの寺があった。その小僧は和尚のいいつけで毎日毎日トウフを買いに出た。寺の前にある古道具屋のおやじがその小僧にいつも尋ねた。
「小僧どこへ行くのかい」
「トウフ買いに行く」
「毎日毎日トウフばかりじゃないか」
小僧は古道具屋のおやじの質問に閉口してしまい、ある日のこと和尚に、「もうトウフを買いに行くのはいやです」と断った。それに対して和尚は、同じように尋ねられたら「西方十万億の仏土、極楽浄土に行く」と答えなさいと小僧に知恵をさずけた。
和尚の言う通り小僧は、答えた。するとそのおやじ、「何しに行くのじゃ」と質問してきた。その時小僧は思わず、「トウフ買いに行く」と答えて、折角の苦心もばれてしまった。

極楽についての言葉は教えられて知っていても、意味を知らねばなりませんね。