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どういう人が極楽にいけるのでしょうか?

「死んだら極楽」「死んだら仏」と思っている人も多いようですが

仏教は、生きている現在、ただ今のことを教えられているのです。

親鸞聖人の教えを、ひとことで、
「平生業成」
といいます。これは聖人の教えから出た言葉であり、浄土真宗の一枚看板です。
「平生」とは、現在ただ今のこと。

 次の「業」は、人生の大事業、生きる目的のこと。
「大事業」と聞くと、松下幸之助さんや、徳川家康の天下統一の事業を思い出すでしょうが、人生の大事業とは、何はなくてもこれ一つ、一人一人が人と生まれて果たさねばならぬ大事をいいます。
 仏教を説かれたお釈迦さまも、親鸞聖人も、生涯、これ一つを教えていかれました。
 それは、大宇宙のすべての仏の本師本仏である阿弥陀仏が、必ず絶対の幸福に救うと誓われている。そのお約束どおりに救われることです。
 しかも、その救いは死後ではない、現在ただ今、完成するのだ、と最後に「成」の一字で表されています。
 完成の「成」であり、成就のことです。人生には目的がある。それはただ今、完成できる。だから早く完成しなさいよ、とのお勧めです。
 ところがこう聞くと、
「人生に目的などあるか」
「この世で助かるなんて考えられない」
と思う人も多いでしょう。
 確かに、私たちが日々、必死に取り組み、高みを目指してしのぎを削っている政治や経済、科学、医学、学問、芸術、武道やスポーツなどには完成、卒業ということは聞きません。
オリンピックに、金メダルを狙う世界中のトップ選手が集います。しかし、たとえチャンピオンになっても、その道を極めたのではなく、卒業したのでもありません。
 これらは、
「死ぬまで求道」
といわれ、生涯、求め続けねばならぬ道なのです。
 ちょっと聞くとこれは、立派で魅力的に思えますが、よく考えればおかしなこと。安心、満足を欲して、私たちはさまざまなものを求めます。求めるのは、求まることが前提のはず。もし求まった、ということがなければ、一生、苦しみ続けねばならないからです。
「求まらなくてもいい。死ぬまで向上、求める過程が素晴らしい」
といわれるような一時的な充実と、人生の目的達成の喜びとは全く異質のものなのです。
 この人生の目的の厳存と、完成のあることを明らかにされた親鸞聖人の教えを
「平生業成の教え」
といい、それこそが人類の光といわれるのです。

この世の自業苦と、死んでからの地獄とがある、と書いてきました。

同じように、この世のゴクラクと、死んでからの極楽があると

仏教では教えられています。

現在の延長が未来ですから、現在の自業苦が救われなければ、
未来の地獄は助かりません。

眼前の小川さえ渡れないのに、どうしてその先の大きな川が渡れるでしょう。

身近な例えでいえば、

「一万円のダイヤの指輪は買えないけど、百万円のなら買えるわ」

こんなおかしな人は、ありえないですよね。
百万円の物が買える財力があれば、一万円の買い物は余裕でできるはずです。
同様に、死後の大変な苦悩を救う力のある仏さまならば、この世せいぜい百年の
苦しみを、助けられないはずがありません。

だから、
「この世はどうにもなれない、死んだらお助け」
などと言っているのはおかしいのです。

 この世どうにもなれない人が、死んでどうなれましょうか。
「現在は自業苦だが、死後は極楽へ往ける」ことは絶対にない。
 今の苦しみが救われ、業苦が楽に転じて「業苦楽」に生かされた人だけが、
死ねば必ず「極楽」へ往けるのです。

生きている平生に救われる「平生業成」の教えこそが、真実の仏法の真骨頂
になっているのも、お分かりでしょう。