浄土真宗親鸞会で仏教を聞いている友人から貸してもらった本に
次のようなことが書かれてありました。

「悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚の数に入ることをよろこばず、真証の証に近くことをたのしまず。恥ずべし、傷むべし(『教行信証』)」
「ああ、情けない親鸞だなぁ。愛欲の広海におぼれ、名誉欲と利益欲にふりまわされて、〝浄土へ往ける身になった(定聚の数に入る)こと〟をよろこばず、〝仏のさとり(真証の証)に近づいていること〟も、たのしまないとは。どこどこまでも痺れ切った奴だなぁ! 恥ずかしきことよ、悲しきことか」
 二十章から詳しく説明するが、〝浄土へ往ける身になった人〟〝仏のさとりに近づいている人〟とは、後生暗い心(無明の闇)が破れ、人生の目的達成した人のことである。ここで聖人は、「私は浄土へ往ける身になった」「仏のさとりに近づいている」と明言されているから、そんな自覚と確信のある人だけが知らされる、自己であり懺悔であることを、確認しておかなければならないであろう。
 では、「愛欲の広海」とは何を言われたのだろうか。
 一皮むけばウミ血が流れるとわかっていても、美しい女を見たときは、邪淫の心が燃え上がっている、と釈尊は説かれている。

   あらゆる人は、つねに淫猥なことばかり考え、婦人の姿ばかりに眼を輝かせ、卑猥な行為を思いのままにしている。
   我が妻を厭い憎んで、他の女をひそかにうかがって煩悶の絶えたことなく、愛欲の波は高く寄せかけ、寄せかけ、起つも坐るも、安らかでない

 仏典に説かれている刀葉林地獄といわれるものは、人間のこの愛欲の広海を描かれたものであろう。
つづく

地獄と悪の問題は切っても切り離せないでしょう。

仏教では、私たち人間を「煩悩具足の凡夫」(煩悩の塊)と教えます。
百八ある「煩悩」は私たちを「煩わせ悩ませるもの」。
中でも恐ろしいのが貪欲(欲の心)、瞋恚(怒りの心)、愚痴(ねたみそねみの心)の
三毒の煩悩です。

今日はその最初の貪欲(とんよく)についてです。

おいしいものが食べたい、

お金が欲しい、

財産を得たい、

愛されたい、

褒められたい

楽したい。

欲望は際限なく広がります。

水がものを潤し、深さも知れないようなものですから、

欲は青色で表されます。朝から晩まで私たちは、この心に動かされてはいないでしょうか?

芥川龍之介の有名な小説『蜘蛛の糸』には、欲の本性が描かれています。

血の池地獄で苦しむ大泥棒・カンダタを救おうと、
極楽の蜘蛛の糸を、お釈迦さまは地獄に垂らされました。
カンダタはその糸を上って地獄から逃れようとします。

途中でふと足下を見ると、何とたくさんの罪人たちが、
後から上がってくるではありませんか。

カンダタは驚いて叫ぶ。

「おまえたち、だれの許しを受けて上ってきた。この蜘蛛の糸はオレのものだ。下りろ」

こう喚いた、その時、今まで何ともなかった糸が手元でプツンと切れた。

あわれカンダタは、多くの罪人もろとも、血の池地獄へ再び堕ちていったのです。

自分ばかり地獄からぬけ出そうとする彼の無慈悲な心を、
お釈迦さまは浅ましく思召されたのでしょう、と物語は結ばれています。

このカンダタのような心を、「我利我利(がりがり)」と仏教では教えられます。

「我が利益」ばかり追い求め、自分さえよければ他人はどうなろうと構わない心です。
 余裕のある時は人に譲る気持ちも起きますが、保身や利害にかかわるギリギリの局面ではどんな心が起きるか。よくよく自己を見つめてみましょう。

この前、参加した親鸞会のお話では、この自分の心について詳しく教えられていました。

どういう人が極楽にいけるのでしょうか?

「死んだら極楽」「死んだら仏」と思っている人も多いようですが

仏教は、生きている現在、ただ今のことを教えられているのです。

親鸞聖人の教えを、ひとことで、
「平生業成」
といいます。これは聖人の教えから出た言葉であり、浄土真宗の一枚看板です。
「平生」とは、現在ただ今のこと。

 次の「業」は、人生の大事業、生きる目的のこと。
「大事業」と聞くと、松下幸之助さんや、徳川家康の天下統一の事業を思い出すでしょうが、人生の大事業とは、何はなくてもこれ一つ、一人一人が人と生まれて果たさねばならぬ大事をいいます。
 仏教を説かれたお釈迦さまも、親鸞聖人も、生涯、これ一つを教えていかれました。
 それは、大宇宙のすべての仏の本師本仏である阿弥陀仏が、必ず絶対の幸福に救うと誓われている。そのお約束どおりに救われることです。
 しかも、その救いは死後ではない、現在ただ今、完成するのだ、と最後に「成」の一字で表されています。
 完成の「成」であり、成就のことです。人生には目的がある。それはただ今、完成できる。だから早く完成しなさいよ、とのお勧めです。
 ところがこう聞くと、
「人生に目的などあるか」
「この世で助かるなんて考えられない」
と思う人も多いでしょう。
 確かに、私たちが日々、必死に取り組み、高みを目指してしのぎを削っている政治や経済、科学、医学、学問、芸術、武道やスポーツなどには完成、卒業ということは聞きません。
オリンピックに、金メダルを狙う世界中のトップ選手が集います。しかし、たとえチャンピオンになっても、その道を極めたのではなく、卒業したのでもありません。
 これらは、
「死ぬまで求道」
といわれ、生涯、求め続けねばならぬ道なのです。
 ちょっと聞くとこれは、立派で魅力的に思えますが、よく考えればおかしなこと。安心、満足を欲して、私たちはさまざまなものを求めます。求めるのは、求まることが前提のはず。もし求まった、ということがなければ、一生、苦しみ続けねばならないからです。
「求まらなくてもいい。死ぬまで向上、求める過程が素晴らしい」
といわれるような一時的な充実と、人生の目的達成の喜びとは全く異質のものなのです。
 この人生の目的の厳存と、完成のあることを明らかにされた親鸞聖人の教えを
「平生業成の教え」
といい、それこそが人類の光といわれるのです。

この世の自業苦と、死んでからの地獄とがある、と書いてきました。

同じように、この世のゴクラクと、死んでからの極楽があると

仏教では教えられています。

現在の延長が未来ですから、現在の自業苦が救われなければ、
未来の地獄は助かりません。

眼前の小川さえ渡れないのに、どうしてその先の大きな川が渡れるでしょう。

身近な例えでいえば、

「一万円のダイヤの指輪は買えないけど、百万円のなら買えるわ」

こんなおかしな人は、ありえないですよね。
百万円の物が買える財力があれば、一万円の買い物は余裕でできるはずです。
同様に、死後の大変な苦悩を救う力のある仏さまならば、この世せいぜい百年の
苦しみを、助けられないはずがありません。

だから、
「この世はどうにもなれない、死んだらお助け」
などと言っているのはおかしいのです。

 この世どうにもなれない人が、死んでどうなれましょうか。
「現在は自業苦だが、死後は極楽へ往ける」ことは絶対にない。
 今の苦しみが救われ、業苦が楽に転じて「業苦楽」に生かされた人だけが、
死ねば必ず「極楽」へ往けるのです。

生きている平生に救われる「平生業成」の教えこそが、真実の仏法の真骨頂
になっているのも、お分かりでしょう。

地獄には、この世の自業苦と死んでからの地獄があるといわれますが、まず、この世の地獄(自業苦)について書いています。

この世の地獄(自業苦)を四苦八苦で教えられていますが、7番目は求不得苦(ぐふとっく)です。

これは求めるものが得られぬ苦しみです。

みんな色々なものを求めていますよね。

おいしいものを、安く、たらふく食べたい

使い切れないほどお金が欲しい

マイホームを建てたい

あの服が欲しい、

携帯を新機種にしたい

パソコンももっと上等なものにしたい

高級車を乗り回したい

彼女が欲しい

彼氏が欲しい

結婚したい

上司の鼻をあかしたい

ヒーローになりたい

皆に振り向かれたい

ゆっくり寝たい

遊びまくりたい

などなど
あげればキリがないと言っていいでしょう。

ところがところが、
実際にその願いが叶うってことはほんのわずかではないでしょうか?

たとえ願いがかなっても、思っていたほどの満足が得られなかったり、、、

と、求不得苦の人生を歩んでいるのは私だけじゃないはず???

この生きにくい人生を親鸞聖人は和讃に

“生死の苦海ほとりなし”(しょうじのくかいほとりなし)

と書かれています。
苦しみの海にはほとりがない、果てがないということですね。

これが7番目の、この世の自業苦(ジゴク)求不得苦(ぐふとっく)です。

「極楽」は、いろんな言葉で表現されています。
例えば「浄土」も「極楽」のことですね。
合わせて「極楽浄土」ともいわれます。
また「極楽」のことを「安養(あんにょう)」ともいわれます。
たとえば、親鸞聖人のご遺言に「御臨末の御書(ごりんまつのごしょ)」と
いわれるものがありますが、そこにはこう書かれています。

「我が歳きわまりて、安養の浄土に還帰(げんき)すというとも、
 和歌の浦曲(うらわ)の片男浪(かたおなみ)の、寄せかけ寄せかけ帰らんに同じ。
 一人居て喜ばは二人と思うべし、二人居て喜ばは三人と思うべし、
 その一人は親鸞なり」

ここで「安養の浄土」と書かれているのが「極楽浄土」、「極楽」のことです。
大体の意味はこうなります。

〝親鸞、いよいよこの世の終わりが来た。
一度は弥陀の浄土へ帰るけれども、寄せては返す波のように、すぐさま戻ってくるからな。
一人いる時は二人、二人の時は三人と思ってくだされ。
嬉しい時も悲しい時も、決してあなたは一人ではない。いつもそばに親鸞がいるからね〟

なんとも優しいお言葉ではありませんか。
親鸞さまが隣にいて下されればこんな心強いことはありませんし、こんなに嬉しい
ことはありません。

親鸞聖人は極楽へいかれても八功徳水(はっくどくすい)の温泉につかって、
百味の飲食(ひゃくみのおんじき)たらふく食べて、ゆっくりなどはしない。
寄せては返す無限の波のように、この娑婆へすぐに戻ってくる。
弥陀の本願を伝えるため、一人残らず本当の幸福に導くまでは、とてもじっとして
などおれないのだ、とおっしゃっているのです。

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親鸞会でも地獄、極楽について教えられていますが、地獄、極楽って実際のところなんなのでしょう?
すくなくとも「極楽」と「天国」は違いますし、キリスト教でいわれる「煉獄」という世界と「地獄」も違うものです。
そのことについて少しずつ書いていきたいと思います。

地獄には、この世の自業苦と死んでからの地獄があるといわれますが、まず、この世の地獄(自業苦)について書いています。

この世の地獄(自業苦)を四苦八苦で教えられていますが、その6番目は怨憎会苦です。

これは嫌な人、憎らしい人、きらいな人と会わねばならないという苦しみです。
人間関係の悩みというのはいつの時代も変わらず、家庭内、職場、学校、などなど深刻な悩みはつきものです。
なかにはイジメにあって自殺してしまう人もあるくらいです。
肉体の傷はまだ治せるが、心の傷はなかなか治せない、といわれますが、嫌いな人から嫌味をいわれたり、皮肉やら、冷たい言葉をかけられると、一日、いやずっと嫌な思いをしてしまう人は決して少なくないでしょう。
まさにこの世の地獄です。

この生きにくい人生を親鸞聖人の教行信証には“難度海”と書かれています。
苦しみの波が次から次へとやってくる、渡り難い海のようなところが人生だと言われているのです。
その難度海の人生を明るく楽しく渡しきる、大きな船があることを教行信証の冒頭には

「難思の弘誓は難度海を度する大船」

とハッキリ書かれているのです。
親鸞会の講演会ではよくこの話がなされています。
どういう意味なのかは、またの機会に書きたいと思います。

地獄における四苦八苦の4番目「死苦」は説明の都合上最後にさせていただきますね。

今日は愛別離苦。
愛別離苦とは、愛が別離することの苦しみで、愛情破綻の地獄の苦をいいます。失恋の痛手を地獄として、自殺する者すらあるくらいです。
二十年もの間、釈尊に師事し、すでに凡情を超越していた阿難尊者でさえ、釈尊がお亡くなりになった時、悲嘆やる方なく、人事不省(意識不明)になられたといいますから、この苦痛もやはり地獄。決して生易しいものではありません。
親が子を失うとか子が親に離れるとか、夫婦、兄弟、朋友知己、その他、死に別れ生き別れ等々、考えるだけでもそら恐ろしく、いずれも耐え難き地獄の苦痛です。

ところが、愛し合いむつみ合っていてそれを極楽と思っていても、いずれは別れねばならぬかと思えば、一方で、好ましからぬ人と一緒に暮らさねばならぬ、という地獄の苦しみもあります。つまりこれは本当の極楽ではなかったということですね。

嫌な人と会わねばならない苦しみは八苦の怨憎会苦に含まれることですが、愛と憎という感情は常に紙一重であり、ときには同じことを指していることも珍しくはありません。夫を愛するがゆえに浮気という行いを憎むことがあれば、あまりに強く愛するがゆえにストーカー行為にまで及んでしまうケースもあり、これもまた地獄といえます。
これも、幸福と不幸の隣り合わせであり、生きるとは何かを考えさせられる。これもやはり地獄でしょう。

人を愛することの陰には必ず苦しみがつきまとい、それが地獄と思われます。
恋をしても告白できずに悩むことも、その苦しみのひとつです。
こういったこの世ならではの地獄の苦しみのひとつひとつを取り除くべく、親鸞会は仏教を正しく推進しているのですね。

Q 極楽はおとぎ話ではないのですか。

A 極楽浄土には、金色さん然と輝く宮殿楼閣や、金銀の大地に八功徳水の蓮池があると、『阿弥陀経』に説かれています。
現代人には、そんな極楽という世界は信じられないと、思う人もあるでしょう。仏の境界である極楽は、人間界と大変異なるので、お釈迦さまは、時には、極楽を「説くべからず」とおっしゃり、随分極楽の表現に悩まれたようです。犬や猫にパソコンの技術を説明するより、極楽の説明は困難だったことでしょう。しかし、説いても分からぬからと説かずにいては、衆生に極楽を知らせることはできません。
そこで、釈尊は人間界で見聞しているもので、極楽浄土を例えられたのです。これを、「余方因順」といいます。
「余方」とは、仏が説かれる相手の世界、「因順」とは、それに順って、との意です。人間には、金銀財宝で極楽を例えられましたが、猫を相手に極楽を説明するならば、「猫の参るお浄土は、宮殿楼閣みなカツオ、猫もあきれてニャムアミダ」となるでしょう。

死んだらどうなるのだろう?という疑問について、死ねば往生して誰でも極楽に往って仏になれる、という迷信が広まってしまっています。
この世が地獄だからといって自ら死を選んで往生を目指すことはお釈迦さまも望んではいません。世に蔓延っている自殺サイトも、往生する方法を探すためではなく、生死について深く考えるためにこそあるのだと私は思います。
お釈迦さまが『大無量寿経』に、「易往而無人(いおうにむにん)」とおっしゃっているのを、親鸞会でなら詳しく教えられていますが、そうでない人たちは知らないのでしょう。
弥陀の極楽浄土へは「往き易いけれども、往っている人が少ない」という意味ですが、これはスッとはよめないですね。
「往き易い」のならば、極楽には「人が多い」はずだし、「少ない」とすれば、極楽へ「往き易い」とはいえないからです。
では、釈尊の金言は何を意味するのでしょう。
浄土へ「往き易い」と言われるのは、この世で阿弥陀仏に救われた人(信心決定した人)のことです。他力の信心一つで必ず極楽浄土へ往けるから「往き易い」のですが、この世という地獄の世界において阿弥陀仏に救われた人がめったにいないので、極楽は「人なし」と言われているのです。
肝心の信心決定を説き勧める人は雨夜の星です。
幸いに、「信心をとれ」と命懸けで教えられる方にお会いできても、よく聞く人がまたいない。皆「易往」だけを読んで、「而無人」の三文字を誰も読めないのでしょう。

厚生労働省による調査で、家庭内での高齢者虐待の実態が明らかになりました。
被害は1年で1万2000件に上り、被害者の8割が女性だったといいます。
息子による虐待が37%と最も多く、娘の14%と合わせて、実子からの被害が全体の半数を占めています。
この数はまだ”氷山の一角”との指摘もあり、さらに増えていく可能性が高いと見られています。

“まだ若いから、老後なんて先のこと”と言っている人も、年齢に関係ないのが地獄の病苦。病はスキあらば私たちの体をむしばむからです。
世を挙げての健康ブームも、裏を返せば、病が不安だからでしょう。有機栽培の野菜が飛ぶように売れ、体に悪い添加物など取らないように、と食品の表示を確認する目も真剣そのものです。ある食品がテレビ番組で体にいいと紹介されると、たちまち人々がスーパーに殺到し、売り切れ続出ということもしばしば。今年初めの人気番組の捏造も、地獄から逃れようという健康への関心が、高い視聴率となるからでしょう。
しかし、どんなに気をつけても、「人間は病の器」。医学が長足の進歩を遂げている今日も病はなくなりません。忙しい時は、”病気にでもなってしばらく入院したい”と思う人もあるでしょうが、いざ病気にかかると、地獄といえるほどつらいことはないものです。どんな病気でも本人の苦痛は”甲乙つけ難い”という意味で、「病」の字は「(やまいだれ)」の中に「丙」と書くともいわれます。
病気になったら、昨日までの健康は極楽だったなどと喜べません。肉体はやせ衰え、立ち居ふるまいもままならず、痛苦にさいなまれて地獄と思うことに。飲食や便通も人の助けが必要になることもあります。またこの世の地獄にありがちなストレスによって心の病を抱えることにもなり生きがいを失うことにもかねません。
そうならないように、病気が発症しないうちから注意を促す予防医学も今日注目され、地獄を極楽として生きようという提案がなされています。